今週の9ジラジは「平和特集」として 広島生まれのアシスタントDJが
それぞれの「ふるさと」をテーマに8月6日について 取材をした様子をお届けしています。
水曜日は安広修平が担当です。
YASUの地元でもある庄原市に住む土井昭二さんからお話しを伺いました。
土井昭二さんは、現在92歳。
10代の頃は、庄原実業学校に通われていました。
学校では、今の10代が受けているような国語や、数学の授業もあったけれど、
ほとんどページが進むことはなく、
基本的には戦争のために動いていたそうです。
そのことで、友達と楽しく休憩時間に遊んだりといった思い出はほとんどないと教えてくださいました。
その後、当時は人手が不足していたことで、学校を12月に卒業して1月からすぐに就職という流れがあり、
土井さんは広島市南区の御幸橋の近くにあった専売局に就職。
塩の管理をしていたと教えてくださいました。
当時の広島は、戦時中だったので食料が不足しており、みんなで支えながらの生活だったようです。
そして、就職をされて2年後の1945年8月6日。
土井さんが、御幸橋近くの専売局の事務所で仕事中に原子爆弾が投下されました。
光ったと思った瞬間にものすごい音がして、事務所のガラスすべて割れたとお話をしてくださいました。
建物が丈夫だったことで、土井さん自身のお体は大丈夫だったようですが、窓の外を見るとそこには地獄の光景が広がっていたようです。
木や建物は燃え続け、身に着けていたものをすべて吹き飛ばされた人々が、1人また1人と倒れていく様子だったようです。
その後、会社の上司が白島に住んでいたので会いに行くために外を歩かれたそうです。
その時に、川に積み重なるようにしてなくなっていた多くの人々、
用水路に頭を突っ込んで亡くなっていた人、小学校でグランドで1列に並んだまま亡くなっていて子供たちを見て、
なんともひどいことがおこった、地獄のようだったと教えてくださいました。
その2年後に、土井さんは広島の会社を辞められて庄原に戻られました。
土井さんの地元の山内町にある山内小学校が、当時仮病院となっており、広島市内から電車などで患者が運び込まれていたようです。
土井さんは庄原に戻って農業をしながら、仮病院で亡くなった方を運ぶお手伝いもされていました。
その時に、原爆の恐ろしさを体験した自分が先頭に立ってお墓を作ってあげなければという想いがあり、
山内の方々から募金をあつめて、お墓を作られました。
現在も、山内小学校に近くに慰霊碑として建てられています。
自らも原爆を体験し、庄原に戻ってからもなくなったための方に活動をされてきた土井さんに、
今の10代へメッセージをお願いすると、
「戦争は絶対にしてはいけない。小さい子供も含め多くの人が死んでしまう。それが戦争。
あんなことは絶対にしてはいけない。そして、この話を伝えていってください。」と想いを届けてくれました。
9ジラーのみんなも、是非この想いをこれから何年も伝えていってほしいなと思います。
僕(YASU)も、もっと学んで、考えて、自分にできることをやっていきたいと思います。
よろしくお願いします。
土井昭二さんこれからもお元気で過ごされてください!
本当にありがとうございました。
※土井さんは、庄原に戻ってこられてから写真を撮るのが好きになったということで、
お家には多くの写真が飾られていました!
やさしい口調で、写真のことを1枚1枚丁寧に教えてくれました!
↑この写真は、賞もとった作品だそうです!